引退後は、プロフィギュアスケーターとしてだけでなく、バラエティなどにも出演し、相変わらずの人気を誇っている浅田真央さん。
現役時代は何度も世界女王に輝き、オリンピックで銀メダルを獲得するなど、天才スケーターとして名を馳せました。
そんな浅田真央さんのフィギュアスケーター時代、バンクーバーオリンピック後シーズン20歳~ソチオリンピック23歳までの軌跡を、成績とプログラムとともにまとめてみました。
エピソードも満載です。
唯一無二の素晴らしいフィギュアスケーター、浅田真央さんのストーリーをお楽しみ下さい!
【浅田真央ストーリー】20歳/ジャンプ修正に着手し技術向上へ向け新たなスタート!
2010-2011シーズン
シニア6年目 20歳
*成績*
全日本選手権:銀メダル
四大陸選手権:銀メダル
世界選手権:6位
*プログラム*
SP:タンゴ
振付:
タチアナ・タラソワ
FS:愛の夢
振付:
ローリー・ニコル
コーチ:佐藤信夫
バンクーバーオリンピック後の新シーズン。
4年後のソチオリンピックに向けて、新たなスタートを切りました!
更なる飛躍へ向けて、ジャンプ修正、スケーティング力の向上などに取り組み始め、コーチも変更。
ジャンプの修正を行いながらも、6種類のジャンプを組込む難易度の高いFS「愛の夢」に挑戦。
地道な努力を重ねつつ、大会では思うような演技ができない中、3月には東日本大震災が起きたりと、色々な意味でこれまでとは違うシーズンとなりました。
【浅田真央ストーリー】20歳/新コーチ
コーチは、佐藤信夫さんへ変更。
佐藤信夫コーチは、全日本選手権10連覇の元フィギュアスケート選手。
コーチとしては、数々の有名選手を育て上げています。
娘である佐藤有香さんを始め、荒川静香さん、村主章枝さん、安藤美姫さん、ほか多数の選手を指導。
佐藤信夫コーチの元で「スケートを一から学び直したい」と思っていた真央さんでしたが、コーチを依頼した際、信夫コーチからは、中々いい返事をもらえなかったといいます。
理由は、
真央は、2度も世界女王になり、
「浅田真央 そして、その瞬間へ」吉田順 著より抜粋
オリンピックでもメダルを獲得した超一流選手。
その指導を引き受けるなどと簡単には言えない
しかし、真央さんのお母様から懇願され、信夫コーチは、真央さんのコーチを引き受けることを決心します。
「お母さんの情熱には、心を打たれました。どうしてもコーチになってほしいと、何度も言われました。
「浅田真央 そして、その瞬間へ」吉田順 著より抜粋
そのことで、わたしの覚悟も決まっていきました。やってみようと。
わたしが持っている知識、経験、そのすべてを、真央に伝えようと。
もちろんそれは、簡単なことではありません。
ソチ五輪まで、その時点で残り3年半。それまでに、どこまで伝えてあげられるか。
真央を指導することは、私自身への挑戦でもありました」
お母様の情熱、信夫コーチの信念、そして真央さんのスケートへの情熱が一つとなり、新しい挑戦が始まりました。
真央さんと信夫コーチは、ソチオリンピックまでの3年半、共に歩んでいくこととなります!
【浅田真央ストーリー】20歳/ジャンプの修正
ジャンプの修正は、とても根気がいる作業で並大抵のことではないといいます。
ジャンプというものは、幼い頃から幾度となく跳び続けることで身についたもので、染み付いたクセを矯正することは「それまで跳んだ数と同じ数だけ跳ばなければならない」と言われます。
真央さんのような一流選手が「一からジャンプを見直す」ということは、一流であるが故に困難なことで、普通なら行いません。
しかし、真央さんは「もっとスケートが上手くなりたい」という一心から、覚悟を決めて、取り組み始めます。
初心者と同じように、シングルジャンプからやり直したそうです。
真央さんは、周囲の誰もが認める大変な努力家なのです!
【浅田真央ストーリー】20歳/成績
このシーズンは、ジャンプの修正に取り組みつつ、また、他の課題も見つかる中、暗中模索の状態で大会に出場しなければならず、真央さんにとって苦しいシーズンとなりました。
GPファイナルも出場を逃しました。
しかし、そんな中で迎えた全日本選手権では、トリプルアクセルを見事決め、銀メダルを獲得。
四大陸選手権でも銀メダルに輝きました。
また、今シーズンは、世界選手権前に東日本大震災が起こりました。
開催地は大阪からモスクワへ変更。
そして1ヶ月後に延期。
結果は振るわず、6位でした。
【浅田真央ストーリー】21歳/「流れで跳ぶジャンプ」への挑戦!トリプルアクセルを封印
2011-2012シーズン
シニア7年目 21歳
*結果*
GPロシア大会:優勝
GP NHK杯:2位
全日本選手権:優勝
四大陸選手権:2位
世界選手権:6位
*プログラム*
SP:シェヘラザード
振付:
タチアナ・タラソワ
FS:愛の夢
振付:
ローリー・ニコル
コーチ:佐藤信夫
佐藤信夫コーチに師事して、2年目のシーズン。
ジャンプの修正だけでなく、スピン・ステップ・スケーティングの全ての向上に取り組む日々が続きました。
このシーズンは、
流れで跳ぶジャンプへの挑戦、
自身の代名詞トリプルアクセル封印、
GPファイナルを辞退、など色々なことがありました。
公私ともに苦しいシーズンでしたが、
東日本大震災で亡くなった方への鎮魂として、ショーやエキシビジョンで披露した「ジュピター」は素晴らしいプログラムで話題になりました。
【浅田真央ストーリー】21歳/2度目の「愛の夢」
今シーズンのFSプログラムは、前シーズンと同じ「愛の夢」。
前シーズンでは、パーフェクトに滑れなかったこのプログラムを完成させたい、との真央さんの思いからでした。
この「愛の夢」(作曲:リスト)は、真央さんが以前から滑ってみたかった曲だそうです。
振付は、以前より交流のあるカナダのローリー・ニコルさんが、様々なところでポリッシュ(修正)を加え、前シーズンより更に質の高い「愛の夢」に変わりました。
そして、6種類のジャンプを組み込んだ、当時のシニア女子シングルで、トリプルアクセルを跳べる唯一の選手、真央さんにしかできない、高難度プログラムです。
【浅田真央ストーリー】21歳/流れで跳ぶジャンプ
ジャンプの修正は、
トリプルアクセルだけでなく、よくエラーエッジをとらえていたルッツほか、全てのジャンプにおいて行われていましたが、
新たに目指したことの一つに「流れで跳ぶジャンプ」の習得がありました。
「スピードのある助走でジャンプを跳び、スムーズに着氷した後もスピードは落とさない」というものです。
このジャンプで、
演技全体にスピード感・力強さが加わり、見栄えもよくなるのです。
【浅田真央ストーリー】21歳/トリプルアクセルの封印
前シーズンから、真央さんは、信夫コーチに、よくこんな提案を受けていました。
「トリプルアクセルは、まだ完成の域じゃない。だから、ダブルアクセルでいったほうがいい」
「浅田真央 そして、その瞬間へ」吉田順 著より抜粋
しかし、真央さんは、
「練習とは違う、緊張感のある試合の中で跳べば、修正点が見えてくるはず」という考えと、
ずっと練習してきた「トリプルアクセルを組み込んだプログラム」を滑りたい、という強い思いから、信夫コーチの提案を中々受け入れることができなかったそうです。
しかし、このシーズン、GP NHK杯のFSで、初めてトリプルアクセル封印することを決断します。
その決断をしたのは、その大会の女子FP前に行われていた、
男子SPでの高橋大輔選手と小塚崇彦選手の演技を観た時でした。
テレビでは、男子ショートの試合が中継されていた。
「浅田真央 そして、その瞬間へ」吉田順 著より抜粋
小塚崇彦、続いて高橋大輔が演技をした。小塚も高橋も、4回転ジャンプを持っている選手だった。
しかし2人はともに、その大技を回避した。
GPファイナルへの出場権をかけた勝負に、2人は徹していた。
今できる最大限の演技を、全力で披露していた。
その演技は、決して守りに入った演技には見えなかった。
真央さんは「こういう戦い方もあるんだな」と思い、
「トリプルアクセルは、確実に跳べるようになってからにしよう」
と信夫コーチの提案を受け入れたそうです。
本番FPでは、トリプルアクセルを封印し、ダブルアクセルに。
そして、今シーズンの新技「ダブルアクセル+3回転トゥループ」も完璧に決め、FSの順位は1位。
総合順位は、SP3位から一つ上げ、2位の準優勝!
次のGPロシア大会も、トリプルアクセルを封印し、優勝!
トリプルアクセルを封印しても勝てることを、GPシリーズ2大会で証明し、
GPファイナルの切符を手に入れたのでした!
【浅田真央ストーリー】21歳/GPファイナルを辞退
GPファイナル出場を決めた真央さんでしたが、思わぬ出来事が起こりました。
開催地カナダ・ケベックに着いた翌早朝、以前より療養中だったお母様の容態急変の知らせが届き、急遽日本へ帰国しました。
GPファイナル出場は辞退しました。
最愛のお母様を亡くした悲しみが癒えない中、全日本選手権は気丈にも出場し、見事に優勝。
出場を決めたのは、世界選手権の出場権がかかっていたこともありますが、
こう思ったからだそうです。
みんな応援してくれている。それにきっと、ママだって喜んでくれる。ママはいつも言っていた。
「浅田真央 そして、その瞬間へ」吉田順 著より抜粋
「自分でやるときめたことは、最後までやりなさい」
悲しいからといって家にいても、現実は何も変わらない。
自分のやるべきこと、それは全日本選手権に出て、精一杯演技すること。
出場は、当然のことだと思った。
翌年の四大陸選手権でも、高順位の2位、銀メダル!
しかし、世界選手権では、封印していたトリプルアクセルに挑戦し、失敗。
他にもミスが目立ち、6位という結果に終わりました。
【浅田真央ストーリー】22歳/スランプから完全復活へ!開幕から5大会連続優勝
2012ー2013シーズン シニア8年目 22歳
*結果*
GPファイナル:優勝
全日本選手権:優勝
四大陸選手権:優勝
世界選手権:銅メダル
*プログラム*
SP:
I got rhythm
(アイ・ガット・リズム)
振付:
ローリー・ニコル
FS:白鳥の湖
振付:
タチアナ・タラソワ
コーチ:佐藤信夫
今シーズンは、ソチオリンピック前哨戦。
しかし、昨シーズンの世界選手権後から、真央さんはスランプに陥ります。
「スケートリンクに立つのがつらい」。そんな日々を過ごしますが、シーズン前にはスランプを克服します。
そして、このシーズンは大復活を遂げます。
主要3大会で優勝し、世界選手権も3年ぶりの表彰台に立ちました!
【浅田真央ストーリー】22歳/スケートをやめようかな
昨シーズンの世界選手権後から、真央さんはスランプに陥ります。
これまでの成果を出そうと望んだ世界選手権では、思うような滑りができず、2年連続6位という結果に「これまで頑張ってきたことは、みんな無駄なことだった」ように思えました。
リンクに立つのがつらく、リンクに立つ意味もわからなくなったそうです。
お母様を失った悲しみと、そんな中、
頑張り続けた心の疲れもあったのではないでしょうか。
「スケートをやめようかな」とまで思うようになったといいます。
そんな中、アイスショーのプログラム振付のため、振付師ローリー・ニコルさんのもと、カナダのトロントへ旅立ちます。
そこで、プログラムの振付に没頭するうち、「滑るのが楽しい」という気持ちを感じはじめました。
そして、振付完成後に招待された、ローリー・ニコルさんのご自宅で数日過ごすうち、少しずつ心がほぐれていきました。
ローリーさんのご自宅は、近くに湖がある自然に囲まれた、静かでゆったりした時間が流れる場所です。
そこで、他のスケート仲間やローリーさんのご家族と、カヌー、テニス、ホームパーティなどスケート以外のことをして過ごすうち「スケートに対する前向きな気持ち」が徐々に芽生えてきたそうです。
そうやって少しずつ、スケートへの気持ちを取り戻していきました。
【浅田真央ストーリー】22歳/「アイ・ガット・リズム」と「白鳥の湖」
今シーズンのSP「アイ・ガット・リズム」は、アップテンポのジャズで、
これまでの真央さんのプログラムにはない、明るく楽しい雰囲気のものでした。
選曲と振付は、ローリー・ニコルさん。
真央さんが演技する時「自然と笑顔で元気になれるように」との思いが込められていました。
オレンジ色の鮮やかな衣装で、
明るい笑顔で演技する真央さんが印象的で、観客も楽しい気持ちになりました!
FS「白鳥の湖」は、
これまでの真央さんのプログラムの中で、一番高難度なプログラムが組まれました。
選曲と振付は、タチアナ・タラソワさん。前オリンピック後も、ずっと振付を担当されています。
タラソワさんは、真央さんのソチオリンピックでの金メダルを見据え、敢えて難度の高いプログラムを構成しました。
ジャンプはもとより、
ステップシークエンスが複雑で、超高難度のストレートラインステップが組み込まれていました!
佐藤信夫コーチの元、
一心に励んできたスケーティング力が向上したからこそできるプログラムです。
そして、このFP「白鳥の湖」での衣装は、バレエを思わせる上品で美しいチュチュのような衣装がステキでした。
【浅田真央ストーリー】22歳/完全復活へ!
このシーズンは、
開幕から5大会連続優勝!GPファイナルでは4年ぶり3回目の優勝を果たしました。
このシーズンは、トリプルアクセルの完成度も上がってきていました。
四大陸選手権のSPでは、2年ぶりに復活させ成功し、優勝しました!
そして迎えた世界選手権では、銅メダルに輝き、3年ぶりの表彰台に立ちました。
元々、スピンもステップも得意で、いつも高レベルを獲得していましたが、それらも更に磨きがかかり、ジャンプだけでなく全てにおいてレベルが向上していました。
3年間、根気よく続けた努力が実を結び始めたのです。
スランプや困難を乗り越え、成長を遂げたシーズンでした!
【浅田真央ストーリー】23歳/ソチオリンピック!金メダルへ向け、高難度プログラムに挑戦
2013ー2014シーズン シニア9年目 23歳
*結果*
グランプリファイナル:優勝
全日本選手権:銅メダル
ソチオリンピック:6位
世界選手権:優勝
*プログラム*
SP:ノクターン
(ショパン)
第2番変ホ長調
振付:
ローリー・ニコル
FS:
ピアノ協奏曲第2番
(ラフマニノフ)
振付:
タチアナ・タラソワ
いよいよソチオリンピック!
バンクーバーオリンピックの銀メダル以降、4年間努力を重ね、金メダルを目指してきました。
このソチオリンピックをフィギュアスケート人生の集大成にする、と公言していた真央さん。
このシーズンは、シーズン始めから好調で、トリプルアクセルもプログラムに十分組み込める完成度でした。
GPシリーズはファイナルを含め全て優勝!
調子を維持したままソチオリンピックへ。
しかし、金メダルへ向けて望んだオリンピック本番、波乱の展開が待っていたのです。
このソチオリンピックのFPで、あの伝説の演技が生まれたのでした!
【浅田真央ストーリー】23歳/女子シングル史上初のプログラム
このシーズン、ソチオリンピックのプログラムは、
SP「ノクターン」
FS「ピアノ協奏曲第2番」に決まりました。
タチアナ・タラソワさんとローリー・ニコルさんが、真央さんに金メダルをもたらす為に考え抜いたプログラム。
SPで、トリプルアクセル1回、
FSで、トリプルアクセル2回を含む、
フィギュアスケートのジャンプ全6種類を全て組み込んだ構成です。
スピン・ステップも高難度で、史上最高難度のプログラム!
バンクーバーオリンピックの時とは違い、苦手なルッツも組み込み、全ての種類のジャンプを跳べる、真央さんしかできない、真央さんがずっと目指してきたものでした!
【浅田真央ストーリー】23歳/ショートプログラム
金メダル獲得へ向けて、迎えたショートプログラム。
世界中が注目する中、始まった演技冒頭、トリプルアクセルで惜しくも転倒。
その後もジャンプで回転不足、ダウングレードなどミスが続き、全体的に精彩を欠いたまま終了。結果は、なんと16位。
呆然とする真央さん。
「オリンピック特有の空気に呑まれてしまった」と後に語っています。
【浅田真央ストーリー】23歳/伝説のフリープログラム
前日のSPの演技に落ち込み、気持ちを立て直すことができないまま、FS当日を迎えた真央さん。
しかし、リンクに立った真央さんは、目を見張る怒涛の演技を展開します。
冒頭のトリプルアクセルを成功させると、次から次へと全てのジャンプを成功させ、最後のストレートラインステップは圧巻でした。
前日のSPが嘘のような、気迫のこもった、そして女子シングル史上初の、トリプルアクセルを含む6種類のジャンプをすべて決めた、素晴らしい演技!
演技終了後、大粒の涙を流す真央さん姿に世界中が心を打たれました。
結果は6位。
SP16位からの怒涛の巻き返しでした。
メダルには届きませんでしたが、目標としていた6種類のジャンプは成功させました。
このFPは、前日のSPから怒涛の巻き返しをした、奇跡の演技として、今後ずっと語り継がれることでしょう!
【浅田真央ストーリー】23歳/支えてきてくれた人たちの為に跳ぶ
前日のSPの演技から、どうやって気持ちを切り替えたのでしょうか。
そして、どうしてあんな演技ができたのでしょうか。
後に、真央さんはこう話しています。
「FS演技前に、姉の舞と電話で話したことで吹っ切れた。もうやるしかないと思った。」
そして、「一つ一つのジャンプをこれまで支えてきてくれた人たちのために跳ぼうと思った。
このジャンプはママのため、このジャンプは舞(姉)のため、そうやって演技するうち、いつの間にか最後のジャンプになっていた」と。
その後の世界選手権ではトリプルアクセルを含む、ほぼ完璧な演技で3度目の優勝!
SPは、当時の女子シングル最高得点78.66の記録を出しました。
こうして真央さんは、二度目のオリンピックシーズンを終えたのでした!